幣舞橋はぬさまい橋と呼びます。
幣舞はアイヌ語でヌサ・オ・マイ=幣場の・ある・ところ に由来するそう。幣場とは神を祀るためのイナウを立てて、祭祀などを行う神聖な場所。
現在の幣舞橋は第5代目に当たります。
愛北橋
明治22年(1889年)~明治31年(1898年)
明治20年の釧路は戸数421。人口2120人。釧路川左岸の台地にのび、米町付近から街が形成されていく。当時の交通手段は徒歩か馬が中心。河川による舟運が幹線交通路で、標茶まで舟が上り下りしていた。しかし、川は陸上交通にはネックとなる。道路とぶつかるところには渡し舟がおかれた。釧路川にも古くからアイヌの渡船があった。明治になり、渡し守が和人へと変わる。渡し舟は2隻。人間用と馬用。運賃は人1銭、馬2銭(明治7年)。明治14年には値段が3倍になる。当時の宮本群長は橋の必要性を感じており、道庁に申し立てをするも不採択に終わる。
しかし、真砂町に店を出し、海産物や米穀、酒類を扱っていた愛北物産株式会社(本社名古屋)が、釧路川の架橋事業に取り組むことに。そして、明治22年9月22日に完成。当時の釧路川はほとんど自然河川のままであり、現在の阿寒川をも支流とする大河であった。水量も多く川幅も広く、出来上がった橋は216mという長さ。幅は3.6mという細長い1本の架け橋。当時の北海道では一番長い橋だったそう。工事費費は、2500円=現在に換算すると5000万円くらいの価値。有料橋だったが、通行料はわかっていない。
しかし、冬期間の結氷や春季の増水など、環境は極めて厳しく明治31年に落橋。
初代幣舞橋
明治33年(1900年)~明治42年(1909年)
愛北橋が落橋して2年数カ月、明治33年12月に完成。幣舞橋と命名。
長さ203.4m。幅4.2m。明治33年、釧路は町制が施行され1級町村になる。これより先の31年、米町には遊郭区域が設けられ不夜城の繁華街と化し、人口も増加。
明治30年代は、釧路にとって、釧路の産業や都市形態の基礎がつくられた時代。きっかけは北海道国有未開地処分法(明治30年)の施行。これにより、釧路川沿いの広大な原始林が、大変な勢いで伐採、造材されていく。主に清国(満州)むけの鉄道枕木の材料として輸出。切り出された原木は阿寒川から釧路川へと筏をくんで流送され、釧路港から積み出されていく。その際、幣舞橋を通るのだが、橋脚の間は狭く、たびたびぶつかるため、木橋幣舞橋は短命に終わった。
明治30年、釧路の戸数1602、人口9、999人、2代目幣舞橋に変わる明治42年には戸数4493、人口21、071人と膨張。鉄道、海運で交通事情が大きく前進、石炭、水産、木材、紙パルプなど基幹産業がつくられた時期。
明治34年に釧路ー白糠、36年に音別まで、38年には帯広まで開通。40年には旭川と連絡し、函館ー札幌ー旭川ー帯広ー釧路ルートが開通。
●石川啄木の来釧
明治41年の1月21日夜9時過ぎに石川啄木は釧路の駅に降り立つ。
「さいはての駅に下り立ち雪あかり さびしき町にあゆみいりにき」は有名。
詳しくは過去記事で投稿しているのでみてください。
2代目幣舞橋
明治42年(1909年)~大正4年(1915年)
長さ203.4mで初代と同じ。幅4.5m。歴代幣舞橋の中では最もかっこう悪いとされており、もっとも短命の6年。大正2年にひどい寒波に襲われ、川は凍結。結氷の圧力にたえきれず脚は浮上。翌3年は逆に暖冬異変、大きな流氷が押し寄せて橋体をいためつけた。交通量の増加もあり、様々な要因に3代目と交代することになる。
3代目幣舞橋
大正4年(1915年)~大正13年(1924年)
長さ201.6m、幅7.2m。今までの幅に比べると倍近くになり、近代化された橋となる。釧路は、第一次世界大戦前後の好景気を背景に発展を続ける。
3代目に関しては、市民からの永久橋の要望がある中で、財政的にも厳しく木橋となった。大正9年の大洪水も相まって、本格的に永久橋への転換期となり、3代目は仮橋的な位置づけとなる。
大正11年8月1日には市制が施行。市制が施行され、道内有数の都市の仲間入りはしたものの釧路は都市環境施設はゼロ、整備を求められた。大正9年8月、釧路はひどい豪雨に襲われ、阿寒川、釧路川が氾濫、未曽有の大洪水となった。
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幣舞橋も流出寸前までいく。この体験を生かして、大正10年から着手されたのが、釧路川の大改修工事、昭和6年までの10年をかけ新釧路川が建設された。
幣舞橋も木橋から永久橋へと着手されることになる。
4代目幣舞橋
昭和3年(1928年)~昭和50年(1975年)
言わずもがなこの4代目が北海道三大名橋(他、札幌の豊平橋、旭川の旭橋)と呼ばれる。旭川の旭橋のみ現存する。
工事期間は実に3年8ヵ月。昭和3年11月3日の渡橋式には市民5千人が駆け付けたという。
橋長は113mと埋立部があるため、従来の半分ほどになったが、幅は18.3mと3代目の2.5倍にまで広がる。
市民が驚いたのは丈夫さだけではなく、橋の美しさだった。両岸の橋台に立つ花崗岩づくりの親柱、周辺にも同じく袖柱と袖高欄、4つの橋脚も石積みが施され、立ち上がりの小柱10基にブロンズ製の小塔が設けられた。照明は親柱の四方に4個、小柱に2個ずつ取り付けられた。
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この頃の人口は43,000人前後。渡橋式には実に1/8近くの人が訪れたというから驚きですね。
47年間という時の流れの中で、橋自身は戦争での空襲で損傷を受けるも、多くの家屋が壊滅する中で落橋することなく、むしろそのたたずまいが戦後復興へのシンボルになったと思われる。
そして、さらなる発展に向け、5代目へとバトンが渡されることに。親柱は存続、4基の橋脚小柱に彫刻とよりよい橋へと生まれ変わることになる。
5代目幣舞橋
昭和51年(1976年)~現在
昭和51年、11月26日に渡橋式が行われた。総工費23億3,700万円。先代の壮重優美さを継承して親柱、袖高欄、橋脚、小柱まで花崗岩の石張りを施工したほか、14基の照明灯のデザインも細心の注意が払われた。
釧路で夕日を見よう!世界三大夕日が見られる「幣舞橋(ぬさまいばし)」 | icotto(イコット)
5代目幣馬橋の美しさは4代目の橋自体の美しさに加え、なんといっても西の空に沈んでいく夕日の美しさとのコラボが魅力的。自然と人工(橋と4人の芸術家の作品)の調和。これが織りなす姿は観光客や市民の心を掴んで離さない。夕日については別で述べます。
道東の四季
幣舞橋の上に4体の裸婦立像がある。最初見た時は、なぜ?という記憶があった。しかし、芸術作品として考えれば裸像というのはヌードデッサンがあるようにありのままの姿をもっともシンプルに捉えているものなのかもしれない。当時も裸像と決まった際に、市民からも多くの反響があったよう。
道東の四季というメインテーマで春夏秋冬がサブテーマになっている。
春夏秋冬は春と秋が「静」的であり、夏と冬が「動」的なポーズをとって、それぞれが対角線的に向き合うような感じで、ひとつのアンサンブルがとれているようにイメージされているらしい。
春:舟越保武 氏(1912年~2002年)
戦後日本を代表する彫刻家。岩手県出身。
若葉が萌え いづる雪解けの季節
四季の像 春 - 釧路市、幣舞橋の写真 - トリップアドバイザー
夏:佐藤忠良 氏(1912年~2011年)
戦後日本を代表する彫刻家。宮城県出身。
さわやかな風を受けて 羽ばたく若々しさ
四季の像 夏 - 釧路市、幣舞橋の写真 - トリップアドバイザー
秋:柳原義達 氏(1910年~1980年)
兵庫県出身。
迫りくる厳しい冬に立ち向かう精神と緊張感
冬:本郷新 氏(1905年~1980年)
北海道札幌市出身。
代表作に氷雪の門(稚内市)がある。この氷雪の門はかつて日本領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑である。
寒さと冬をはねのけて 春を待ち望む心
釧路の夕日
釧路の夕日は以前にも投稿したような気がしますが、あまりに出来が悪かったので、よい画像をいただきました。
あまりに美しい夕日は世界三大夕日(他インドネシアのバリ島、フィリピンのマニラ)と称されることが多い。特に秋から冬にかけて、釧路は日照率が高くなり、晴れ間が続く、北緯43度と緯度が高いこと、夕日の入射角度が深くなることなどが関係して、赤さが増してきれいな夕日になるのだそう。また、釧路湿原を蛇行しながら流れる釧路川の河口付近は西側に大きく折れ曲がり、海に向かって夕日が落ちるという地理的位置も関係しているようで色んな要素がつまってあの美しい夕日が見れるのだと実感。
ちなみに空の色が青やオレンジに変わったりするのは、大気層で光の散乱が起こることによる物理現象のことのようで、レイリー散乱という言葉があるようです。
難しい言葉が並んでいたのですが、子供にも分かるように説明すると以前、紹介した「賢い子」を育てる100のおはなしのしぜん21に『空はなぜ色がかわるの?』というのがありました。大人でも理解しやすい内容だったので、ぜひ親子で読んでみてくだだい。