本好きナースマン

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釧路の歴史探訪⑥中戸川農場

中戸川平太郎

今まで、釧路の歴史を何回かブログに書いてきましたが、この中戸川平太郎という人物のゆかりの石碑などは見つけることができず。しかし、昔の文献を読んでいると今の北大通形成にはこの中戸川平太郎という人物は極めて深く関わっている。

 

明治23年発行の『北海立志図録』では農業 中戸川平太郎で掲載されている。

共鳴する空間 ─中戸川吉二と里見─(2)の画像

 

現在の北大通9丁目・善光堂さんのあたりから末広町・栄町にかけての一帯は中戸川農場であった。

今では、飲食店などが連ねている場所であり、今でこそ飲み屋街も少し賑わいに陰りを見せつつあるものの、丸三鶴屋などのデパートもあり、釧路の中心地として賑わいを見せていた。

 

●中戸川平太郎

安政2年(1856年)7月、相模国高座郡栗原村(相模国=現在の神奈川県)で生まれた。中戸川家は明治12年に商業をもくろみ、北海道へ渡る。海産物の売買に成果をあげるが、農業で永住すべく土地払い下げを出願。西幣舞に地積10万坪の未開地貸し付けを受け開墾に着手したとある。当時の西幣舞はひどい湿地であったと伝えられ、“馬がぬかるみから這い出せず、力尽きて死んだほどの湿地”だったそう。

 

明治17年は鳥取村開村の年である。移住者はトンケシ(頓化)に着いたとされており、中戸川も釧路郡の総代のひとりとして、迎えにいっているそう。

釧路の発展は、釧路川左岸、今でいう南大通の方であり、米町が釧路発祥の地とされている。そして、鳥取村の士族は現在の釧路駅のすぐ裏辺りから開墾している。つまり、その間にあたる場所の湿地に中戸川農場はあった。

明治17年、西幣舞に1区画30間(約50m)四方の区画測量が行われ、58区画が区割りされた。

ちなみに明治17年の釧路村の戸数は320戸ほど。その内訳は、現在の町名で桂恋に31戸、米町・南大通り・浦見・幣舞界隈に245戸、城山付近に1戸、北大通・浪花界隈に6戸と、極端に偏在していた。

前回の幣舞橋でも紹介したが、釧路川は当時、阿寒川流入しており大きな川であった。橋の間は渡舟で行き来していた。しかし、当時の川の渡し舟は居住者の生活手段というよりは、来住者が通過する折りの交通手段という性格が強く、橋の必要性ついてはそこまで高くなかった。その後、北大通鳥取が栄えてくることにより、橋の建設が要望されるようになる。

明治22年に幣舞橋のもととなる愛北橋が架かることになり、その後は何度も損壊、再建を繰り返すがこの橋の完成により、

釧路川左岸(釧路の中心)-愛北橋(幣舞橋)-中戸川農場ー鳥取開拓村

のラインが完成し、発展していくことになる。

 

中戸川吉二 明治29年(1896年)~昭和17年(1942年)

中戸川家の次男として生まれる。のちに小説家として活躍するそう。